販売責任を問われる金融機関の正念場!!

 昨日は濃厚な忘年会の後、社会復帰できず、ブログを休んでしまいました。非常に元気だった頃は、明け方まで飲んでいても、魔法の水でピシャピシャと顔を洗えば、社会復帰できたのにと思うと、淋しい気もします。
 その忘年会の席である方が「これから節約の時代に入る」と言われてました。私も同感です。
2006年1月のホリエモンショック以来、日本経済は大きな転機となり、「好景気だと浮かれていたけど、それは長く我慢していた財布のひもが緩んだだけで、自分の財布が膨れたわけじゃないんだ」と気付きました。戸惑っているうちに2年程度が過ぎてました。
 今や、国も企業も個人の家計も、「あれは無駄だった。これは無駄かも知れない。えっ〜、これも諦めなければならないの?」と、葛藤の中で無駄を見直さなければならないという強迫観念が広がっています。
 次に来るのは、「何でこんな使い道をしてしまったんだろう?そういえば、これはあそこから勧められた物だ。そもそも、こんなものを勧めた販売先に問題があるのでは?」と販売責任の追及です。
そして「問題だ」という被害者の声に勇気づけられて、「自分も訴えよう」と訴訟が頻発してきます。
これは好況から停滞期、そして不況を意識する過程で繰り返し、起こってきました。
好況の時には隠れていたものが停滞期に入り自転車操業ではごまかし続けることができなくなって、まがい物が表に出ます。海外の儲け話や、この間の「円天」騒ぎ、そして最近では、和牛商法に、霊感商法。
 「何であの時にもう少し考えておかなかったのだろう」、「何でもう少し調べるとか、詳しい人に相談するとかして決めなかったのだろう」と自分を責めることが多くなります。
 「いいように勧められて後悔している」という相談者から、「売り付けられた金融商品」を見せてもらうと、大抵は金融商品としては問題ない物です。ただ投資するときの理解が十分ではなくて、その後「どんな点を意識したら冷静に、その金融商品と付き合っていったらよいか」を一人悩んでしまったことが根を深くしています。そのときに、販売した先が先回りして投資家の気持ちをフォローしたり、投資家側が気楽に相談できるつきあいが続いていたら、自分を責め、販売先を恨むことも少なかったかも知れません。
 そういう意味では、これから販売先は腹をくくって、販売した責任を果たすべく、投資家のフォローを惜しんではいけません。投資家から不満を受けるのはまだ投資家とつながっている証拠です。最悪なのは、投資家が不満を持っているかどうかも皆目分からないという状況です。
 「まがいものを売り付けた」というレッテルを貼られないように。金融機関の正念場はこれからです。